バレー部の友達から発想の転換を学んだ話。
こんにちは。和田 虎太郎です。
今日は、高校時代バレーボールに打ち込んでいた友達が、
大学入学時に取ったある凄い行動についてのお話です。
その友達はバレーボールが大好きで、大学でもバレーボールをやりたいと、常々言っていました。
ところが、その友達が進学することになった大学は、バレーボールの強豪な大学でした。
そこのバレー部は、推薦で部員を募っており、一般入学でも部に入ることは出来るものの、推薦入部の選手とは、授業の時間が違い、殆ど練習には参加できないようなシステムになっていることに、友達は入学して気づいたそうです。
普通なら、そこであきらめて、サークルでバレーを続けるか、バレー部の限られた時間を頑張るか、マネージャーとして頑張るか、はたまた、実業団などの社会人バレーを探すと言った、選択肢が思い浮かぶのがせいぜいなところだと思います。
しかし、友達は、驚きの行動に出ました。
それは、第二のバレー部を作るという方法です。
自ら事務部に掛け合い、こういう事情でバレー部を作りたいということを説明し、
第二のバレー部の必要性を問うたのです。
残念ながら、大人の事情で思いは届きませんでしたが、その友達の驚きの発想に
びっくりさせられてしまいました。
「わたしも友達のようになりたい。」とかいう話ではなく、
ただただ、発想の面白さに、刺激を受けたというお話でした。
本日のお話は以上です。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
次回の記事もよろしくお願いします。
時代の変化についていけるか??
皆さまこんばんは。和田 虎太郎です。
近頃、落ち着きつつあるコロナウイルスですが、まだまだ油断はできません。
今日は、コロナによって変わりつつある仕事や生活のスタイルが、コロナが落ち着いた後はいったいどうなるのかについて考えてみました。
今、全国の多くの大学は、ZOOMを用いたリアルタイム授業をはじめ、様々な手段でオンライン上の授業を行っています。
授業を受けてみての感想は、初めの一週間は戸惑いましたが
二週目あたりからは、わざわざ早起きして準備して大学に行く必要がないことに凄く幸せを感じています。
塾のバイトに関しては、私がZOOMを用いて授業する側になっています。
これも数回ほどやればもうさほど違和感もなくなじんでいます。
塾に関して言えば、近所の子供たちが通うような小さな塾なので、それほど生徒たちも
通うのに時間もかかりませんが、大学はどうでしょう。県外から電車で2時間なんて言う友達も数多くいます。
そんな人からすればオンラインはある意味理想の形なのかもしれません。
また、仕事はどうでしょう。私の姉はプログラマーなのですが、今は自宅でのリモートワークという形で働いていますが、パソコンさえあれば支障はないと言っています。
つまり、コロナによって生活スタイルが変わったのと同時に、新たなスタイルへの変換期を迎えているのかもしれません。
正直に言えば、このままオンラインの形式をメインにしたスタイルに変えても困らない
仕事というのは、姉の仕事をはじめ、多くあるのではないでしょうか。
そうすれば、通勤時間の節約、無駄な光熱費の節約とにもつながるのかもしれません。
しかし、絶対にリアルでの時間というのも必要だとは思います。というのも、やはりネット越しの会話と、リアルでの会話では、空気観や、微妙な間などの、感覚的な部分が、どうしてもリアルの方が感じれると思うからです。
つまり何が大事なのかというと、このままオンラインに移行していくものと、リアルの時間を要するものとの、区別をはっきりとする力が求められているのかもしれません。
また、そうした視点で物事を見直すことで、本当に必要なものとそうでないものも見えてくるのではないでしょうか。
本日の話は以上です。最後まで閲覧いただきありがとうございました。
また次回の記事もよろしくお願いします。
「自宅時間」の増加の受け取り方の違い!!
こんにちは。
和田 虎太郎です。
今日は、コロナにより増加した、「自宅時間」の過ごし方
「自宅時間」の受け取り方の、人による違いから学んだことのお話です。
私は、先日の記事で少し触れたのですが、塾でのバイトと掛け持ちで、
王将でも働いています。
しかし、大阪では緊急事態宣言で塾が閉鎖していたため、塾バイトはもちろん
しばらくの間お休みなり、王将も、大学の横という立地のせいで客足がなく、
しばらく休みになりました。
いつもなら週5~6でバイトをしていた生活だったのが、途端に
バイトがなくなってしまい、正直時間を持て余す生活を送ってしまいました。
「コロナの馬鹿野郎!!」と心の底から思いました。
そんなある日、大学のゼミの授業で「自宅時間」の過ごし方についての
話になったときに、意外にも「自宅時間」が増えてうれしいという
声が多かったのに私はびっくりしました。
というのも、彼らが言うには、「アニメやゲームをする時間が増えた」とか、
「好きな映画が見れる」と言っており、普段なら家にこもっていると
親に嫌味を言われるが、コロナのおかげで気にせず引きこもれるというのです。
つまりは、コロナの影響によって、引きこもりが悪いという社会的価値観が、逆転を起こしているのです。
コロナによる「自宅時間」を楽しんでいる人の話を聞いて、
自分も今の時期だからこそできることで楽しもうと思うきっかけになりました。その一つが、このブログです。ww
「自宅時間」を楽しもうなんてよく言いますが、実際にこういう
体験をして、改めて考えるきっかけになりました。
本日のお話は以上です。
最後まで読んでいただいたみなさま、ありがとうございました。
また次回の記事もよろしくお願いします。
教養について考えてみた!!
皆様こんにちは。
国語教員を目指している 和田虎太郎です。
今日は、「教養」という言葉について少し思ったことを書きます。
一般的に「教養」と言われれば、一般的な知識や、常識ということが思い浮かびます。
それに、豆知識的な、特定の場合を除き役に立たないような情報のことも言います。
つまり簡単に言いかえるならば、「知識」と言い換えることができます。
今述べた教養という言葉のイメージは、おそらく多くの人が共有できると思います。
しかし、共有しているイメージのその中身が違う場合もあるということを、私たちは知っておかねばならないと私は思うのです。
というのも、生活様式によって、必要な言語や計算は違います。
例えば、日本人にとっては当たり前である日本語も、地球の裏側ブラジルではほとんどの人はわからないのです。
計算で考えた場合、日本は9×9までしか覚えてないのに対し、インドでは、2桁×2桁の計算も一瞬にして計算してしまうと言います。
これらは極端な例ですが同様に、小さなころからの教育の違いによる「当たり前」にできることの違いだと考えます。
ここから見えてくるのは、「教養」というのは、文化や生活環境によって姿を変えるということです。
この考え方はかなり大事で、実際に私のバイト先の塾では、ほぼ全ての生徒が携帯を持っていて、SNSを使っています。
私が小学生の頃は、せいぜい持っていてもガラケーで、それも2割くらいだったと思います。
つまり、ここ10年間で小学生の「教養」として、携帯電話の利用という新たな力が定着しているのです。
これは誰かが指示したのでもなく、生活環境の変化の中で自然と身についたものです。
身近にあるこのような問題を言語化していくことで、「教養」という言葉の意味の再確認につながったのと同時に、自分の当たり前を押し付けるのは、相手にとっては当たり前じゃないことも往々にしてあるということも改めて考えなおすきっかけになりました。
拙い文章力と、内容ですが、ここまで読んでいただいきありがとうございます。
また次回のブログもぜひ、よろしくお願いします。
ブログを始めたきっかけ!!
はじめまして。 私の名前は和田 虎太郎(わだこたろう)と言います。
まずは私の簡単な自己紹介と行きたいところですが、誰も興味がないと思うので
割愛させていただきます。
さて、私がこのブログをはじめた、いきさつについて今日は書かせていただきます。
理由は一つ、「自分が考えたことや、感じたことを、文字という記録に残しておきたい」と考えたからです。
情報や、自分が感じたことを文字に起こすことで、自分の頭の中の整理にもなるし、
文章を書くにあたり、文章の構成、言葉選びと言った、自分のスキルが同時に磨かれることにもつながります。また、のちに見返すことで、こんなことあったなぁと、シンプルに振り返ることも、できないよりは、できる方が絶対に言いはずです。
そんなことを思いついたので、今日からこちらのブログに記録させていただきます。
拙い文章力と、内容ですが、ここまで読んでいただいきありがとうございます。
また次回のブログもぜひ、よろしくお願いします。